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コンテンツが大量に読み捨てられる時代だからこそ「人」に価値があるのかも知れない。

迷い込んだ思考の迷宮

その時、僕は自宅のウッドデッキに居た。

安もののパイプ椅子に腰かけ、春の陽気を背中に感じながら1冊の本を読んでいたのだ。

 

手にしていたのは、「人に読まれるコンテンツ」系のハウツーもの。

「いかにして人に読まれるコンテンツを書き上げるか」がテーマの書籍を読んでいたはずが、ふとした拍子に別の方向に思考のスイッチが入ってしまい、いつの間にか本と思考の間を行きつ戻りつしつつも、思い付いた事を思わず、あれこれとツイートしていた

 

この時は、それで消化した様な気がしていた。

 

けど、それが今日になっても頭から離れない。

そこで今日は頭を整理するためにも、その辺りについて、もう少しだけ思考の端切れを吐き出しておこうと思う。

※本記事は自省のための記事であり、特定の誰かに向けたモノではありません。

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1日前に読んだコンテンツをどれだけ覚えているだろうか

その時、読んでる書籍は確かに「読まれるコンテンツの作り方」がテーマで途中までは良い感じで頷きながら読み進めていた。

それが何かの拍子に「読まれる?その先があるんじゃないか?」と思ってしまったわけだ。

実際ね。

僕は、情報収集のためや興味・関心の向いているサイトを中心に、FeedlyというRSSリーダーに登録しているサイトは100程度を維持する様にしている。

100という数字については、僕自身がこれ以上多いと消化し切れないからってだけで然したる意味は無い。

けど、逆にこの100程度あるサイトは更新されれば、ほぼ確実に目を通すし、 心に引っかかるものがあればコメント付きでツイートしたりもする。

 

そう。

その瞬間は確かにその記事を読み、何かしらの引っかかりを感じ、わざわざコメントまでする訳だ。

それが、翌日になればそれらの大半は覚えてさえ居ないという事実。

 

そこから省みてみると、このブログはどうだ?

確かに、それなりに読まれ続けている記事はあるし、ありがたい事にSNSで拡散して頂く事も多々ある。

けどそれは「だた読まれるだけ」で終わってるんじゃなのいか?

「読まれる」という部分自体には然したる意味は無いのではないか?

そんな疑念がグルグルと頭の中に渦巻いた。

 

まるで思考の迷宮に迷い込んだかのように。

 

コンテンツが脳髄反射的な消費される時代

これだけ情報が氾濫している現代は、大半のコンテンツが「読まれた。でもそれだけ。」で終わってしまう、そんなコンテンツが大量に読み捨てられる時代とも言えるかも知れない。

そう。

このブログに、どれだけ一過性のPVやセッションをかき集めてみても

明日になったら忘れ去られる様なコンテンツの山を築き上げてみても

そこに何の価値があるんだろうか。。。

 

そんな事を考えていてはブログというメディアなんて運営できないのかも知れないが。。。

僕は、もう少しだけ自分の思考を辿る事にした。

 

行き着いたのは陳腐で使い古された答えだけど

検索で出会う一度限りの記事やTwitterのツイートから拾い読みする記事の数々。

その中から、わざわざRSSリーダーに登録し、更新された(こう書くと語弊があるかもしれないが)対して興味も無い様な記事をわざわざ読みに訪れるサイトが存在するのはなぜか。

ただ通り過ぎていくだけのサイトと、そうでないサイトの違いは何だろう。

 

それはもしかすると、それを書いている書き手に興味があるからなのかも知れない。

僕自身は、それほど興味がある訳でも無いテーマであっても、その書き手がどんな切り口で記事を仕上げてくるのかには興味がある

そんなイメージだ。

と、ここに至って一先ず思考を辿るのを終わりにした。

まぁ、使い古された、ありガチな結論ではあるが。

 

最後に

とまぁ、貴重な休日の昼下がりに、あれこれ小難しい事を考えてました。。。

ブログなんて難しく考えずに好きにやったらエエのに、、、アホですねw

 

ちなみに、ここまで吐き出して気付いたんですが、もしかすると、こんな記事を読んだせいかもしれませんw

少しでも心の引き出しに入る記事を書けるようになりたいものです。

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