享年63(満62)歳の若さで他界した父の7回目の命日。
ちょうど今日がその命日に当たる。
父が他界してからというもの、11月22日には毎年かかさず墓に参り、墓を隅々まで掃除したのち、花を手向け、線香を立ててから手を合せている。
これは僕の儀式でもあるからだ。
少し、父の話をしよう
父がガンの告知を受けた時、既にスキルス性の胃がんが、あちこちのリンパ節に転移した後だった。
父の闘病生活、そして僕がそれにどう向き合ったのかについては、随分前からひっそりと記事に残しているので、参照して欲しい。
参照:墓標
自衛官だった父
父は防衛大学校から、江田島の海上自衛隊幹部候補生学校を経て、海上自衛隊の潜水艦隊に入隊し定年まで勤め上げたバリバリの自衛官だった。
幼少期、父は恐怖の対象だった
僕が幼かったころは「父親=怖い」というイメージしかなかった。いや、正確には「畏怖」というのに近いのかもしれない。
この頃、何度か父に連れられて自衛隊基地内に行ったりしたが、その度に父の部下と思しき方々に「お父さん怖い?」と聞かれたものだ。
(そして「怖い」「怖くないよ」どちらを答えてもニヤニヤされた)
今ではそのニヤニヤの意味も解るが、当時は「どうやら、ウチの父親は職場でも相当恐いらしい」と思っていた。
何にせよ、この頃は「優しいお父さん像」に憧れたものだ。
3秒で終わった反抗期
その内、僕も思春期に差し掛かり、背も伸びたし、それなりに力も強くなって、怖いものが無くなる年頃となっていた。
ある日、僕は父への反抗を試みたのだ。
次の瞬間。
「お前なら3秒で殺せるなぁ」
父はニヤリとしながら呟いた。
(ヤバい。相手は本職だった。。。)
「ゴメンナサイ。。。」
こうして僕の反抗期は3秒で終わりを告げる。
酒が親子関係を変えてくれた。
僕も相応の年齢になって、父の晩酌に付き合うようになってから僕と父の関係は大きく変わっていく。
大学から帰省するたびに、酒を酌み交わしながら色々と語り合ったし、自分の拙い意見をぶつけてみたりもした。
国際政治や、歴史、軍事、戦略・・・内容は様々だったが、徐々に、父から「お前も少しは成長したな」。そう言って貰えるようになってくる。
このころ父子から師弟関係に変わっていった。
父は、顔を合わす度に「次までに読んどけ」と言っては色々な書籍を手渡してくれた。
例えば、
- 戦略論:リデル・ハート
- ローマ帝国の興亡
- 孫子の兵法
- 戦術と指揮
などなど。
内容は随分と偏ってはいたが、僕はそれらを「宿題」と称して読みふけったし、それが再会した時の酒の肴になっていた。
今思うと、父は僕にも自衛官の道を選んで欲しかったのかもしれない。
退官
定年を迎え、自衛隊を退官となった父は、天下りと思われるのが嫌だといって、自力で保険の勉強をして保険会社に再就職した。
「俺も、もう保険屋のオヤジだから、ゴマもするし、おべんちゃらだって言うぞ」
そういって笑っていた。
父が、その頃から別人のように丸くなっていったのが妙に印象的だった。
末期の病床
末期の病床にあった父は、痛み止めのモルヒネの影響から、うつらうつらしている事が多かった。
現役自衛官や自衛隊OBの皆様のお見舞いも引っ切り無しではあったが、ある日、現役自衛官の方がお見舞いに訪れ、国際情勢について一通り説明した後、父に意見を聞いた事があった。
(答えられる訳が無い。。。)
そう思った僕が「モルヒネの影響で、、、」と助け舟を出そうとした瞬間だった。
話を聞いている最中も、終始「うつらうつら」していた父の目が。
ギラリ。
「それは、、、だろ。押さえ所は、、、だ。」
そう的確に意見を返していた。
やはりこの人は生粋の自衛官なんだな。そう思った。
後二十数年
あれから7年の月日が流れ、僕の傍らには、父に抱いてもらう事のなかった2人の息子達が居る。
僕も父が他界した歳になるまで、あと二十数年。
僕はまだ何者でもない。
2人の息子達が大きくなり、僕が死んだ後、僕の事をどう語るのだろうか。
願わくば、2人の息子達に「何者かになった僕」を見せてあげたいものだ。
あとがき
この記事は僕の単なる思い出話に過ぎません。
「ブログは誰かに見て頂くものでもある」
そう考えると、この記事に、訪問頂いた方には申し訳なく思います。
明日からは、また気持ちを新たに更新していきますので、ご容赦下さい。