現在、個人的に仕事ももちろんですが、生後数カ月の赤ちゃんをかかえる父親としてもメッチャ忙しい時期です。
にもかかわらず、わざわざ時間を捻出して、このブログを書いている。
なんででしょう?
そもそも、ブログ書く理由って、ブログを書いてない人には理解しがたいでしょうし、書いている側としても説明するのが非常に難しい質問だったりします。
色々な理由があるけど・・・
もちろん、そりゃありますよ。色々な理由が。
例えば、
- 備忘録になるから。
- 周りの情報に対して好奇心と行動力がアップするから。
- 人とのつながりができるから。
- アドセンスとかアフィリエイトで収益が発生するから。
- 情報を発信して誰かのためになりたい。
- 読んでもらえると嬉しいから。
でも、そんな理由たちに、僕自身が何だかシックリきてませんでした。
たった1つのツィートで悟った
それが今日、1つのツィートを見て悟りました。
あぁ。だからブログを書くんだなって。
『俺は旅行とか興味ないしなー』って言い続けていて、つい先日『あ、俺って以外と旅行好きだったんだ…』って気付いた時は個人的に衝撃だった。アレだろうな、こうやってようやく自分の事が少しづつわかっていくんだろうな。で、この気付きの数によって人生の充実度が変わってくるのかもなと思たマル
— Senna(セナ) (@onepercentdsgn) 2014, 9月 25
そうか。
ブログってのは、自分の見聞きしたものや触れたもの、その時の自分の感情・考えを、一度自分の中で咀嚼して、自分の言葉で記事に起こす。
この行為こそが自分への気付きをくれるし、それによって自己の理解が深まり、成長していく。それが結果として人生の充足につながる。
そういう事だったんです。
これって、アレと同じですね。
アレ
仏教(特に禅宗)には「外観」と「内観」という考え方があります。
解りやすく言えば、
- 外観=自己の表面や外側にあるものにフォーカスすること。要は「周囲の世界を重視すること」
これに対し、
- 内観=自分の内面にフォーカスすること。要は「自分と向き合うこと」
です。
禅宗では、
「外観では、『無限無数の外物』に振り回されるから、いつまでたっても『満足と安心』は得られない。外物による際限の無い誘惑に抗するうえでも、内観が必要なのだ」
と教えられます。
そう考えると、ブログを書く行為そのものが、いわば禅の修行の様なもの。
「只管打坐」ならぬ「只管打筆」ってとこですね。
※「只管」はひたすら、ただ一筋に一つのことに専念すること。「打坐」は座ること、座禅をすること。
まとめ
という訳でまとめます。
ソーシャルサービスが発達した現在では、情報発信も簡単で、他人の情報を右から左へと再発信する事も容易になりました。でも、そうやって右から左へと簡単に流した内容って自分の中に、何一つ残りません。
その代わりに、その時々の自分の感情・考えを、一度自分の中で咀嚼して、自分の言葉で書き起こす行為によって、確実に自分の中に気付きや成長として積み上がって行きます。
という訳で結論。
僕がブログ書く理由=悟りへの道
(いやいや、話が大き過ぎるやろ!w)
まぁ、今の境地としては、そんな感じです。
追記
こんな結論に至ると、「自分と向き合うならブログじゃなくて日記でも良いんじゃない?」って質問も出そうですね。
確かに「内観」の部分だけをみれば、その通りです。
ですが、僕たちは、かつての高僧達とは違い、俗世の荒波の中で生きていますので「内観」だけでは片手落ちなのではないか?とも思っています。
内観から発した自己を世間に問うてみる。
その反応を持って、また内観へと至る。
これこそが、俗世で生きる者の務めであり道である。と。
っていうか、これまたアレですね。
「7つの習慣」のインサイドアウトw
以上、参考になれば幸いです。^^